タイトル | たまには女じゃなくて男と遊びますか?そんな歴史を調べてみました。 |
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投稿者 | hireidenton |
投稿日 | 2021年09月02日 |
『たまには女じゃなくて男と遊びますか?そんな歴史を調べてみました。』 こんにちは。 東京近郊でソープランドを中心にお遊びしているデントンと申します。 突然ですが、皆さんはニューハーフ店って利用されたことありますか? 私は、正直、とくに興味はなかったのですが、先日、とあるサイトで無料券を入手したことをキッカケに利用させていただきました。 そっち系の興味はほとんどないのに、出てきたキャストがあまりに綺麗な方だったので、ふつーにおっ勃っちゃったのは、先日、体験談で書いたとおりです。 さて、同性に対して性的興奮を覚えるというのは、最近でこそ、LGBTなどと呼ばれて、政治的・社会的にも大きくクローズアップされていますが、 歴史的にはいつ頃からあったのでしょうか。 ちょっと調べてみました。 歴史的には、男どうし関係を持つことは、男色とか修道とか言われていたようですね。 戦国時代のことについては少しだけ知っていましたが、元々は、遡ること、720年成立の日本書紀にあるようです。 小竹祝(しののはふり)と天野祝(あまののはふり)との関係を描いた「阿豆那比(あずなひ)の罪」に関する物語に記述があるとか。 ただ、それは半分神話的な話でもありますから、ちょっとぴんと来ません。 でも、実際に平安時代には公家や僧侶の間で流行ったらしいです。 お寺などは宗教上の理由で女人禁制だったりしたそうなのですが、じゃあ、男どうしなら良いだろということでしょうか。 貴族の子どもがお寺に入って、僧侶の身の回りの世話をするという慣習があったらしいのですが、 身の回りのついでに、あっちの世話までしちゃったということのようです。 そういう子どもは稚児(ちご)と呼ばれたようなのですが、僧侶のほうも調子に乗って、子どもの髪を伸ばしてみたり、子どもに化粧を施したりして、なるべく女性に近い雰囲気で楽しんだとか。 奈良時代などによく参照されていた「四分律」という仏教の経典においては異性・同性に関係なく性行為を禁じてはいたそうなのですが、 稚児との行為を、「稚児を神格化する儀式」、、とかなり無理くりな理屈で正当化していたようです。 僧侶と稚児との関係については、勅撰和歌集(後拾遺和歌集)でも詠まれてたりして、かなり一般的な行為だったようです。 時代が公家社会・貴族社会から武家社会に移っても、伝統的な男色は受け継がれました。 南北朝を統一した足利義満は、男色文化を取り入れ、その基礎を作ったという話もあるようです。 そういった流れから戦国大名の男色に繋がっていくみたいですね。 皆さん、ご存じかもしれませんが、有名な戦国大名も、、、 織田信長は森蘭丸と。 徳川家康は井伊直政と。 武田信玄は高坂昌信と。 伊達政宗は片倉重長と。 具体的なエピソードも多数ありますが、ここでは省略したいと思います。 なお、豊臣秀吉は女が大好きで、そっちの世界には一切手を出さなかったそうです。 ちなみに、上記の戦国大名は女性とも関係を持ったので、現代のLGBTでいうところのBということになりますでしょうか。 でも、一つ疑問に感じるのは、女人禁制だった僧侶ならともかく、その国の王である戦国武将がなぜ男に手を出す必要があったのでしょうか。 この点、戦場において女性は不浄な存在で、戦場に連れて行くことができなかったなどとする説もありますが、 実際には、長期の戦では戦闘の合間に近隣の遊郭に出入りしたという記録があったり、側室をアドバイザーや護衛の名目で陣中に伴ったりしたことなどもあったようです。 なので、謎が多く、なかなか結論付けるのは難しいですけど、やはり、そこは上流社会に属する者のたしなみだったのかもしれませんね。 江戸時代になると、若衆歌舞伎が舞台後酒宴にお伴した先で売春行為を始めたことから陰間と呼ばれる男娼が登場するようになるなど、性産業化していきました。 これがニューハーフ店のルーツということになりますでしょうか。 こういった男色の文化について、仏教や神道では緩かったようですが、キリスト教では罪とされていて、 それゆえ、明治時代になって西洋のキリスト教的価値観が広まると、タブー視されるようになったようです。 1873(明治6)年になると男性同士の行為を罪とする「鶏姦罪」が規定されるに至ったそうな。 とまあ、こんな感じですが、もし、皆さんがNH店に行かれることがあったら、こんな歴史的経緯も思い浮かべながら男性同士の営みをお楽しみいただければと思います。 NH店に行かれたことがない方も、上流社会に属する者の伝統的なたしなみとして、試しに楽しまれてはいかがでしょうか。えへへ。 | |
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