タイトル | 【1972→1981】学生運動と自販機本とヘルスがつながる? |
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投稿者 | nognog |
投稿日 | 2022年03月04日 |
『【1972→1981】学生運動と自販機本とヘルスがつながる?』 【注】コラム中にいくつか社名が出てきますが、いずれも現存しないため理解しやすいよう名前を出しています。一方存命人物につきましては実名を隠しています。 最近ニュースとなったのが50年前の1972年に発生した「あさま山荘事件」。武力革命を目指した新左翼の連合赤軍が「あさま山荘」に立てこもり銃撃戦を繰り返した事件です。警察は殉職者を出しながらも発生から9日後に強行突入し事件は解決しました。この結果学生運動を中心とした日本の新左翼は大打撃を受け、武装テロは沈静化してゆきます。 1972年はこの他にも「山陽新幹線岡山開業」「沖縄の本土復帰」「日中国交回復」「パンダ初来日」など大きなニュースが相次いだ年でした。山陽新幹線は今も交通の大動脈として活躍していますし、沖縄は人気観光地に、パンダは双子が生まれ今も人気です。 では新左翼の連中はどうなったの?という話をしてみたいと思います。彼らのたどった意外な後半生が実は今の世界につながっているのです。 [行き場を失った活動家たちを拾った自販機本] 新左翼の学生運動に関わった学生たちのうち、早くに活動から離れた者は大手企業への就職が叶いましたが、1970年代になると「こんな危ない人間は会社に入ってもらっては困る」として東大や京大の出身者であっても企業から入社を拒まれ排除されます。興信所などを使って徹底的に調べたとされます。 いまさら新左翼の活動にも戻れず就職もできない彼らを拾ったのが独立系の小出版社であった「アリス出版」でした。彼らが目を付けたのが書店への取次を経由しない自販機での販売で、表紙とそれに続く数ページのヌードグラビア、あとはモノクロページの漫画や文章記事で構成されるB5サイズ64ページの雑誌を制作していました。これが「自販機本」と呼ばれるもので、当時はハダカが少なかったことから爆発的なヒットになります。1975~78年頃の話です。 とはいえ読者が自販機本に対して求めたのはヌードグラビアだけで、30~40代のモデルさんがセーラー服を着ているようなものでしたが当時はそれでも若く見えれば売れたのだそうです。モノクロページの漫画や文章記事に至っては目を通す読者はおらず、新左翼運動に関わった連中が政治的なアピールを混ぜ込んでいたようなケースもあったそうです。三流出版社の片隅に置かれた自らの叫びを自販機本のモノクロページにぶつけていたのでしょう。 この「アリス出版」、バス旅から引退したあの方、コミックマーケット準備会の代表であった方(故人)も出入りしていたようです。コミックマーケットから同人漫画誌が盛んになりアダルト向けの同人誌もできてゆきますが、今回は割愛します。 [自販機本がAVを産んだ?] 自販機本はヒットし、最盛期には全国2万台の自販機で月に400万部以上を売っていたそうです。年500億円の市場には「アリス出版」の他にも「エルシー企画」など多数が参入し、編集者も多数必要となりました。 このため自販機本の編集は下請けの編集プロダクションに外注するようになります。グラビア撮影の下請けをやっていた会社の一つが「九鬼」という会社で、AVの初期に大手であった「KUKI」に発展してゆきます。スチールカメラをビデオカメラに持ち替えた、と考えると分かりやすいですよね。 [自販機本を淘汰したビニ本] 自販機本の下請け編集プロダクションの中にはAVの制作に進まず、モノクロページを廃しグラビアページを充実させたアダルト本の制作に切り替えるところも出てきました。モデルも若くし、判型もB5から大きなA4にして見やすくしています。 取次を通さず売るという店では自販機本と同じですが、彼らはアダルト書籍を扱う書店や大人のおもちゃ屋などに直接卸す形を取っています。書店だと立ち読みされかねないので透明の袋に入れてテープ止めして販売されました。そのため「ビニ本(ビニール本)」と呼ばれました。 中身が充実しているため売値を高くしても売れますし、取次を通さないことで高い利益を確保できることから版元も書店も大儲けしたそうです。神保町にある某アダルト専門の書店はこの頃売り上げの千円札を段ボールに詰めて銀行に持ち込んでいたほどで、1年ほどで自社ビルを建てられるほどの利益が上がったそうです。だいたい1978~1981年頃の話です。 一方の自販機本は月に40種類以上の自販機本が世に出回る状態で、編集が追いつかず売れ残りの本の表紙だけ交換して売るといった粗製濫造も行われたため人気を落とします。ビニ本のヒットと入れ替わるように淘汰され消えて行くことになりました。ただし漫画を中心とした雑誌は「三流劇画誌」と呼ばれ、取次を経由した雑誌に変わりしばらくは生き続けることになります。 [ビニ本がヘルスを産んだ?] 自販機本に代わってビニ本がヒットすると大きな問題が発生しました。それは「モデルの女の子をどう調達するか」です。当初は編集者の個人的な人脈やモデル事務所から女の子を調達してきましたが、40社近い版元が月に100冊以上の新刊を出すような状態ではモデルになる女の子が枯渇してしまいますよね。 写真集なので顔出しになり、モデルの女の子は一般の仕事ができません。生活のため仕事を与えてあげないといけない。そこから出てきたのが「ヘルスの運営」だったとされます。実は都内のヘルスのオーナーの一部はモデル事務所や編集関係の出身だったのです(ヘルスのオーナーには他にもソープからスピンアウトした人たちなどもいましたので全部が全部という訳ではありません)。 ソープと違ってベッドプレイがないのでモデルの子も働きやすいですし、逆にヘルス側も一般の女の子にも求人をかけており、それらの子の中からヌードモデルになってくれる子が出てくればモデルに採用する、という形を取ることができます。 ただヘルスが流行する一方でビニ本は無修正の裏本に食われる形で衰退、その裏本も裏ビ○オへの移行や厳しい取り締まりの中で衰退します。裏ビ○オとの同時撮影などで生き残りを図るものの2006年に最後の本が刊行され裏本は終わりを迎えました。 [整理すると・・・] 自販機本の下請け編集→ビニ本の編集→ヘルスの経営 ↓ ↓ AVメーカー 裏本の編集→裏ビ○オ(VHS)の制作 となっていったようです。 自販機本が意外な人たちによって作られ、彼らが仕事を変えつつ初期のヘルスに関わっていたことはあまり知られていない事実かと思われます。ほとんどの方は既に業界を去っていたり亡くなっており、改めて50年って長い年月であることが分かって頂けると思います。 | |
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