タイトル | 風俗遊びのDNA |
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投稿者 | 大納言 |
投稿日 | 2018年07月26日 |
『風俗遊びのDNA』 私が中学生のころ亡くなった祖父(以下ジーチャン)のお話です。 このジーチャン、明治前半生まれで、日露戦争のころにはすでに丁稚奉公してました。父親(小生の曽祖父)が番頭をしていたとはいえ、自分の代でのれん分けしてもらい、戦前から立派な店を構える旦那でした。 そのころから花街通いが始まり、当時としては長身(170㎝以上の甲種合格)のイケメンだったそうで、たちまち一人の芸者さんとねんごろになったそうです。3男2女の子育てが一段落したころ、彼女を身請けして一軒の置屋(芸者さんや舞妓さんの所属事務所みたいなものです)を開かせました。 ジーチャン『普通の人は芸者を迎え入れて遊ぶんだが、ワシャ送り出す方になったよ』小生の地元の花街ではこういう遊びを【台所(ダイドコ)で遊ぶ】というのだそうです。 さて、時は経ち小生が生まれてからのエピソードを二つ。 柏鵬の全盛期、相撲の巡業が地元に来て、ジーチャンが小生と弟と従弟の3人を連れて行ってくれました。桟敷席にいたんですが、結びの一番大鵬対柏戸、子供たちは興奮のあまり砂被りまでいって見ていました。 打ち出し後席に戻るとジーチャンがいません。しばらく捜していましたが、小学校高学年になっていましたし、ジーチャンからなにがしかの小遣いももらってましたので、3人で帰ろうということになりました。 市電の乗換駅(この駅、花街の入り口です)で待ってると、通りの向う側をきれいなお姉さんと手をつないでジーチャンが歩いてるではありませんか! 「ジーチャーンッ!」大声で呼ぶと、悪びれた様子もなく、 『おーっ!お前らここからやったら一人で帰れるやろう?』 割増しの小遣いをもらって喜んで家に帰って母親に報告したら、 『あんたたち、いいダシに使われたわねぇwww』 この事件の意味をすべて理解できたのは、ジーチャンがなくなって4,5年してからでした。 ジーチャンがモテたのは芸者さんばかりではありません。 時は前後しますが、小生が幼稚園の頃ジーチャンが軽い糖尿病で入院しました。ところが、糖尿病にくせに、見舞いに行くといつも寿司やウナギを食べていて、幼い小生にもおすそ分けしてくれました。 母親が、『お義父さん、こんなん食べていいんですか?』と聞くと、 『婦長さんが出前とってくれたんだからいいんだよ。』 これも小生が大人になってから聞かされたことですが、ジーチャン、婦長さんを口説いて好き放題の入院生活だったそうです。 この婦長さん、ジーチャンの最後の時もそばにいてくれましたし、その後も我が家に泊まりに来たり、メディカルコンサルタントのような関係が、彼女が引退するまで続きました。 家族は、小生の風俗好きはジーチャンのDNAだと言いますが、小生自身とっては、ジーチャンは遊びの師匠、あこがれの存在です。 あ、そうそう、もう一つ。ジーチャンのお葬式には、上記の置屋のおかみさんと、その娘さんらしき人が、人目を忍ぶように来てくれました。娘さんは、ジーチャンそっくりでした。 | |
この風俗コラムへの応援コメント(6件中、最新3件)
- お汁(129)2018/8/1>>大納言(36)の『風俗遊びのDNA』のコラムこんにちわ~^^ うちのじいさんも大納言さんのジーチャンほどではないですがかなりモテたようで、外を歩くと若い女性、おかみさん問わず女衆がむがったそうです。じいさんの若いころの写真は完全にフランス人俳優(完全に日本人ですが)でしたねえ。THE日本人の中に一人だけ外人状態。。。
そしてお遊びもまあまあ お遊びしていたようでじいさんがなくなったときに初めて 「×2である事」、「(幼くして亡くなっていたが)子供が外に後2人いたこと」
などが判明し家族はびっくりでした・・まあ 当時はお遊びには寛容な時代だったようなのでどちらかというと「かっこいい旦那」なのかもしれませんね・・
そんなワシにもお遊びのDNAが 流れているのでしょうかねええ・・・